2006年9月17日号
日系人強制収容所
(写真)全米日系人博物館所蔵
マンザーナ強制収容所にて
1942から45年の間に撮影されたもの
アメリカ時間の1941年12月7日、卑怯(ひきょう)とみなされた真珠湾奇襲攻撃で、米国に住む日系人だけが“敵国人”のあつかいを受けました。しかし日本と同じ同盟国のドイツ系やイタリア系の移民の子孫が“敵国人”とあつかわれることはありませんでした。
日系コミュニティーのリーダーはスパイ嫌疑(けんぎ)でFBIに連行され、翌年の大統領令で西海岸に住む約11万の日系人が強制収容所に入れられました。手荷物はスーツケース2個に限られ、日本からの移民が長い年月をかけてこつこつ築き上げた財産の大半が、ただ同然で売り払われました。
長距離移動の末に送り込まれた全米10ヶ所の収容所は、どこも厳しい気候でバラックの隙間からは砂やさそりが入り込むこともありました。砂漠の中のにわか作りの集落は有刺鉄線で囲まれ、見張り台には銃を構えた守衛が立っていました。
上のバスケットの写真の背景には雪をかぶった山が見えますが、昼間は灼熱の砂漠です。長屋形式のバラックに三家族ほどが収容され、プライバシーは保たれませんでした。
『収容所でバスケットをする姿なんて…』と、日本のみなさんにとっては意外な光景でしょう。実は大半の収容所の運営権は日系人にあり、“ミス・コンテスト”や“盆踊り”などもありました。ハイスクールの卒業アルバムも残っています。収容所内での就職には(当時の米国の最低賃金よりは低いのですが)賃金も支払われていました。
ぜひ、下の画像をクリックして、日系米人強制収容所のデジタル記録をご覧ください。
当時の日本の勤労奉仕や満州残留孤児よりはるかにめぐまれた生活ですが、ここで問題になるのは、収容された日系人の7割が米国で生まれ育ったアメリカ市民だったということです。さらに、アメリカで生まれ育った日系二世の多くが、不当なあつかいをする米国への忠誠を問われ、両親の母国(日本)とのあいだで心身を引き裂かれることになりました。